ブログを書こうと思い立ち、ハードディスクのなかにあった画像を仮で貼ってみたのがこのヨーグルト写真。レイアウト確認のために置いてみただけなのだが、なんか最初の投稿にちょうどいい気がして、このまま書き出すことにした。
ちょうど10年前にネパールの古都バクタプルで昼飯のあとに食べたヨーグルトで、こいつは初恋のような味がした。この町で代々ネワール族の民が作り続けてきた初恋の味は、現地の言葉でズーズーダウと呼ばれ「ヨーグルトの王様」と称えられている(というのは、今しがた補強した知識です)。
ヨーグルトの王様に対しての不敬罪で捕まりそうな話だが、この写真一枚が無ければ、ズーズーダウを食べたことを思い出すことが一生なかったかもしれない。すっかり忘れていた。
でも、この写真が記憶のトリガーになって、色々連鎖的に思い出してきた。薄暗くて狭い階段を上がったところに急に明るい日が差し込むフロアがあって、古い寺院が眺められるテラス席で腰をおろしたこと。ざらざらした紙のメニューにはびっしり小さい文字が詰め込まれていて、まるで経典。これはアルファベットなのに全く頭のなかに入って来ないぞ、と目をこらしながらなんとか注文したのはインスタントヌードルに野菜を刻んで入れたものとコーラという、ひとり暮らしのメンズに愛されるような料理だったこと。
そんなズーズーダウが登場するまでの記憶のいっさいがっさいが蘇ってきて、一枚の写真の持つ“記憶のしおり”、あるいは“脳内インデックス”のような効果にただただ唸らせられる。
だが、ここでふと考えるのは、そもそも写真を撮ったから記憶に残らなかったのではないか説。
大学1年生のときにインドで過ごした人生で一番ボッタクられたあの夏は、あまり写真を撮らなかったからか、どうでもいいディティールさえ解像度高く記憶している。
当時は学生が買えるくらいのデジカメはまだ性能がいまいちで、フィルムをいくつかバックパックに入れて親父のフィルムカメラを借りて旅に出るしかなかった。だから、あまり撮らなかったというか、撮れなかった。
社会人になって何年か経っていた10年前のネパール旅では、デジタル一眼を手にしていて、旅の高揚感とともにずっと撮り続けていた。だから、記憶がうすぼんやりなのだな、と結論づけるのはいささか乱暴な気もするけれど、まったく関係なくもない気がするのだ(それを証明したアメリカの研究があるというのをどこかで見た)。
とはいえ、一枚の写真がなければ記憶から消えていたヨーグルトがひょいと出てきて、あれこれ思い出せるというのも決して悪くはないし、何よりもファインダーを覗いて写真を撮るその行為自体が楽しい。そのハッピーの差分だけお得かもしれない。
話は変わるが、息子の通う幼稚園にはいくつか掟がある。そのなかのひとつは、行事の写真を撮影してはいけないこと。理由は、ちゃんと親のまなざしで見てあげてほしいという園長先生の思いにほかならない。写真は、写真係が撮るから大丈夫と。
これには、ただただ共感してしまう。
そうだよな。子どもの輝いている瞬間は、レンズ越しじゃなくて生で見るもんだね。
そうしみじみ思っていたところ、今年はその例外であるところの「写真係」を仰せつかることに……。
記憶と写真の天秤のことはとりあえず忘れ、週末の運動会に向けて夜な夜なレンズを磨く次第である。
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